夕方まで降っていた雨に洗われた空気は ピンと張りつめる様な冷たさで笠井を迎えた。 思わず身震いをして、白い息を故意に吐き出しながら、東京の星を見る。 今日は空気が澄んでいる為か、よく見えた。 21か ぼんやりとそんな事を思った。 去年の誕生日は、ハタチという節目の年齢か、 照れくさい様な、ここまで来てしまったかという達観のような 複雑な気持ちになったものだけれど。 21だ 隣に祝ってくれる人がいないせいかもしれないが、 今年の誕生日はただ流れる様に笠井の体を通り抜けた。 あの時付き合っていた彼女は、何をプレゼントしてくれたんだっけ。 そこまで考えて、一瞬の思い出が頭をよぎった。 初めて“付き合った”あの人からは、何を貰ったけ。 貰ってないかもな。 そういうイベントみたいなことを、マメにする関係ではなかったし。 どうしているんだろう、今頃。 目を瞑った。 思い出せることは、今となってはごく僅か。 声さえも意識的に思い出そうとすると、記憶の中の男は喋らない。 最後に会ったのは、男がスペインに出立するあの朝だから、 声だって随分変わったろうに。 この間、偶然目にとまったサッカー関連の雑誌の表紙に、男の顔を見つけた。 ああ、頑張っているんだなと、ひどく懐かしい気持ちにさせられた。 サッカーからは離れていたので、情報は入ってこなかったが、 男は既に帰国し、日本のプロサッカーリーグで活躍している様だった。 男は、サッカーを辞め、音大生になっている俺を見たら、なんと言うだろう。 目を開いて、もう一度星を見る。 21か 思えばあの頃から、随分変わってしまった。 SPECIAL THANKS 「次は、武蔵野森学園中等部前、武蔵野森学園中等部前」 手を伸ばして、紫色のボタンを押した。 赤いランプがつき、チャイムの音がこだまする。 車窓から見る景色は見慣れた、けれども他人の顔をしている。 11月5日、土曜日 誕生日の翌々日、俺は母校を訪ねるために、バスに乗っていた。 行って何をするでもないが、あのグラウンドにもう一度立ちたかった。 世間は呑気な土曜で、途中使った電車は混んでいたのに、バスはがらんとしていた。 窓から見る歩道も、時々自分も着ていた制服姿の学生が通るだけ。 正常な土曜日の午後の風景だと思った。 バスから降りて暫し逡巡する。 右に行けば学校だし、左に行けば寮だ。 目的はグラウンドだが、もしかしたらサッカー部が練習中かもしれない。 寮に、行ってみようか。あの桜並木を通って。 並木は、あの朝から何も変わっていない気がした。 ああ、ちょうどこの辺だ。 男に別れを告げたのは。 コンビニへと曲がる道の直前で足を止めた。 今思い返せば、どうしてあの男にあそこまで惹かれたのか。 俺達は男同士で、まだ子供だったというのに。 それでも必死だったんだ。 ざわざわと梢が揺れた。 その音に耳を澄ませる。 さざ波の様なこの音が懐かしかった。 「あら!えーと、笠井君!笠井君じゃない?」 驚いて振り返ってみると、そこにいたのは松葉寮の寮母さんだった。 「まあぁ、立派になって。元気だった?」 「はい・・・。おばさんも、お元気そうで・・・」 突然のことに、言葉はしどろもどろだった。 「サッカーは?まだ続けてるの?」 「いえ、今は音大に通っています」 「あらそうなのぉ。あら、でも、高校までは続けてたわよね? 藤代君と一緒に、国立行ったでしょう?」 「ええ、あれから一年浪人して・・・」 「そうなの。でも、音大じゃ浪人なんて珍しくないものね」 一通り談笑した後、おばさんは本題をついてきた。 「それで、今日はどうしたの?」 俺は談笑をしながら、ある決意を固めていた。 「ええ、いきなり懐かしくなって・・・。 あの、寮の中に入ったりとか、できませんかね?」 「あら、いいわよ」 あっさりと承諾された。 訊けば、サッカー部は今日から遠征に出ているらしく、寮はがらんどうらしい。 ということは、グラウンドも空いているのだ。 連れだって並木道を寮へと歩く。 木々の枝の隙間から、やはり変わりない、 百年経ってもそこにあるのではないかと思わせる、松葉寮が見えた。 慈しみの様な感情が胸に溢れて、 ここを自分がどんなに愛していたのか思い知らされた。 「見てきなさいよー。懐かしいでしょう」 おばさんはそう言って寮の扉を開けた。 胸がざわつく。これほどまで、変わっていないとは。 今にも藤代がスリッパを必要以上に鳴らしながら、食堂から出てきそうだ。 「個人の部屋以外は見て構わないわよ。 まぁ鍵がかかってるから入れないとは思うけど」 丁寧にお礼を言って、二階へと昇った。 最初に行ったのは、自分が使っていた部屋だった。 勿論中には入らなかった。 ただドアを二十秒くらい眺めていた。 次に、三階の談話室に向かった。 その途中に男と渋沢先輩が使っていた部屋がある。 記憶は、その場が鍵だったのか、 後から後から引き出されて、重苦しいくらいだった。 喉が詰まった。 その部屋の前は、一瞬扉に視線を向けただけで、通り過ぎた。 誰も見ていなくても、立ち止まることは屈辱的だった。 談話室は当たり前のことだが、誰もいなかった。 誰かに用があるならまず談話室に行け、だったのに。 たくさんの顔が思い浮かぶ。 みんな、何をして、何を見ているのだろう。 足を踏み入れて近くで見てみると、やはり変化はしていた。 ソファは一層擦り切れ、破れが目立つ。 テレビは、買い換えられていたが、それでも新品には見えない。 多分、今の中学生も、自分達と似た様なものなのだろう。 談話室を過ぎれば、あとは屋上くらいだ。 階段は相変わらず埃っぽい。 そういえばここでジェンガとかやったなぁ、今思えば馬鹿みたいだ。 でも、あの男も彼なりに必死だったのかもしれない。 別れの朝の眉間に皺を寄せた顔を思い出した。 なんだかもう、笑い話になってしまったけれど。 今再会出来たら、定年間近のおじさんみたいに、 笑いながらあの時の話ができるかな。 そんなことを思いながら、扉を開けた。 いつの間にか風がでてきて、空に流れる雲が、太陽を覆い隠し始めている。 懐かしい。 本当に懐かしかった。 あの頃は、ここが世界の全てだったのに。 視野はいつの間にか広がって、この場所とも距離が出来てしまったのだ。 懐かしく感じるというのは、そういう事だ。 あの男にここで会って、ここで別れて、 我ながら訳の分からない中学生活だったと思う。 でも、ここでの生活があったから、今の俺がいるんだ。 空を見上げた。 もう、昨日の夜感じた空虚感はなかった。 一階に下りると、おばさんがお茶の用意をして待っていてくれた。 世間話や思い出話をつらつらとしているうちに、時刻はもう夕方になっていた。 おばさんは、玄関まで見送りにきてくれた。 「あら、なんだか一雨きそうねぇ。あんなにいいお天気だったのに」 空は冬の初めらしく、白い雲で覆われていた。 しきりに傘をすすめてくるおばさんの申し出を断ってから、並木道を引き返した。 多分あの頃、俺は本当に男のことが好きだったのだろう。 そうでなければ、いくら若かったからといって、キスなんか出来ない。 自覚していたよりもずっと好きだったんだ。 いい思い出って笑えて思えるのは、後悔していないから。 あれでよかったんだ。 全部、全部あれでよかったんだ。 乾燥したグラウンドの土は、慣れた感触。 何度も見た光景は、切ない色を帯びながら、ゆっくりと視界におさまった。 国立競技場で日本一の名を手にした翌日も、ここに来た。 その日は、決意を固める為。 サッカーを辞め、音楽の道に進む。 その意志を確固としたものとするには、こことの決別が必要だった。 でも、この場所は何も変わらず、俺を迎えてくれる。 ここだって、俺に必要な一つだったんだから。 もう一度、サッカーを始めてみようか。 今度は、ただの趣味として。 そしていつか近所の子供とかにサッカーを教えられたらいいな。 あの頃とはきっと違った楽しさが、そこにはある。 そろそろ帰ろう。 グラウンドの中心から足を動かす。 出口の方に顔を向けると、黒い影があった。 その影はポケットに両手を突っ込んで、こちらを見ていた。 多分人に話したら、 そんなことあるわけないと嘘つき呼ばわりされるかもしれないが、 あの男とここで再会することだって、俺には必要なピースで、 それで一つの物語になるんだ。 男はまだこの状況に順応できていないようで、驚いた表情をしていた。 思わず笑う。 煙草止めたんだなぁ、とか大人になったなぁ、とか色々思ったことはあったけど、 俺もまだ驚きから完全に解放されたわけではないのか、言葉は出てこなかった。 あなたに会えたことを、今では感謝しているよ。 あなたは俺の人生を変えてくれた人だから。 泣きたい気持ちを飲み込んでから、笑って顔を上げる。 今日は昨日の誕生日にかこつけて、何か旨いものでも食べさせて貰おう。 それで、朝まで飲んで、あの頃のことを笑い飛ばそう。 きっと文句を言いながらもこの男は、応じてくれる筈だから。 end.