「結婚するかもしれない」 まるで、昨日本を買ったと報告するような口調だったので、あやうく聞き逃すところだった。 「はい?」 「結婚するかもしれない」 聞き間違いでないことを確認し、俺の口をついた言葉は 「…お前と結婚するなんて、ろくな男じゃないぞ」 彼女は左手で数回こめかみを叩き、重々しいため息を一つ吐いた。 「あんたよりはマシよ」 心底呆れたときにする彼女の癖だった。 ろ/く/で/も/な/い/男 「いつ?」 「詳しいことは、まだ…」 そう言って日に透けた色素の薄い髪をかき上げる。 無意識のうちにあそこへと目がいっていた。 細い薬指には何もはまっていない。安堵していいのか、解らなかった。 その手には数え切れないほど触れていた。 キスもした。体を重ねたことも。 俺は彼女とつきあっていると思っていた。 はっきりと確認したことはなかったけど、彼女は俺のことが好きでそして俺も…。 自分の勘違いだったのだ。 俺は、胸焼けするほど甘いオレンジジュースを半ば無理矢理飲み干した。 彼女は先ほどの会話など忘れたかのように、くだらない世間話をポツポツ話す。 俺は適当に相槌を打ちながら、二杯目のオレンジジュースを頼んだ。 喫茶店で二人の男女が笑いもしないで世間話をしている姿は、傍から見てどんな風にうつっただろうか。 そのうちに、彼女が時計を気にし始め、ついに席を立った。 「用事があるの」 「婚約者と?」 小さな顔が縦に揺れる。初めて気づいたが、胸元に銀色のネックレスが光っていた。 彼からの、贈り物なのだろう。 「さようなら」 「……」 恋人のさようならだった気がした。なんだ、やっぱり付き合っていたんじゃないか、俺たち。 だったらさっき、引き留めれば良かった…。 不覚にも泣けてきて、俺は慌ててトイレへと駆け込んだ。 涙と一緒に大量の鼻水が出るのは俺の癖なのだ。 * 「結局アイツにとって俺なんかただの遊びだったんだよ」 「へぇ」 総ちゃんは、笑いながら相槌を打つ。幼なじみだというのに冷たい対応だ。 「なぁ、ちゃんと聞いてる?」 「聞いてるよ。だからさっきから言ってんのに。俺が女紹介してやるって」 「それもいいかもなぁ」 「だろ?」 「嘘だよ!!」 「どっちだ」 俺は人工革張りのソファに突っ伏す。 総ちゃんに顔を見られるのがやだったし、彼が食べるチャーハンの匂いがあまりにもおいしそうだったからだ。 先程、悲劇のヒーローぶっていらないと言ったことを激しく後悔していた。 「あんなにいい女めったにいないっつーの」 「よく解ってんじゃねーか」 総ちゃんは俺の幼なじみで、俺を振った女、日比谷満の従兄弟でもある。 満と俺が出会ったのは総ちゃんのお陰・・・お陰? 「…そうか、総ちゃんが俺の人生滅茶苦茶にしたんだ」 「頼むからそういう気持ちの悪い言い方はよしてくれ」 「だってあの時、満と会っていなかったら…」 アイツと会っていなかったら? 「その方が幸せだったか?」 総一郎が真っ直ぐ俺を見ていた。 少し年上の幼なじみに全てを見透かされた気分になって、居心地悪かった。 喫茶店で別れた日から数日がたっていたが、なすことすること全て裏目に出てしまうのだ。 昨日映画を見に行ったが、見たかったプログラムはすでに終了していた。 ついてないなぁ、と思ったがよくよく考えれば今までは調べてくれるしっかり者が隣にいたのだ。 入ったレストランは味が悪いくせに値段が高かった。 こんなことはなかった。 アイツがいてくれたら、無意識のうちにそう思うことが何度もあった。 「…総ちゃん、俺もう恋愛できないかも」 「そんなに満ちゃんが好きか?」 悔しかったが、素直にうなずいた。どうせもう、全てお見通しなのだ。 「そう言えば昨日、母さんから電話があったんだ」 いきなりなんだよ、と俺は呟いたがナチュラルに無視された。 「満ちゃんのお母さんと偶然会ったって」 総ちゃんがにっこり笑う。その意味をくみ取ることは俺にはできない。 「満ちゃんの仕事の話とか、買った車の話とかしたらしいよ」 「…だから?」 「英司、知ってるだろ?ウチの母親と満ちゃんのお母さんは姉妹なんだ」 たいして耳新しくない情報だ。 そして俺にはなんの意味もなさない。 「父さんによると、母さんの家系はおしゃべり好きらしい」 じゃあ総ちゃん母親似だな、心の中だけでつっこんでおいた。 「俺は満ちゃんが結婚する話なんて、お前からしか聞いていない」 総ちゃんが、さぁどうだと言わんばかりに胸をふくらましたように見えた。 三秒くらい考えて俺は、その理由に思い当たった。 「そうか。満、嘘をついてまで俺と別れたかったのか…」 だったらはっきり嫌いと言ってくれれば良かったのに。 どうしてこんなすぐにばれる嘘を…。 視界がまた、滲んでくる。 「はぁ?お前も相当鈍いヤツだな」 総ちゃんはぐいっと俺の肩を掴み、背筋をはらせた。 「あのな、英司。満ちゃんはお前に引き留めて貰いたかったんだ」 「…うそ」 「本当だ。まぁ、多分。でもきっと」 彼女のあの日の動作がゆっくりとコマ送りで蘇る。 いや、それどころかはじめて出会ったときからのことが全部。 好きだった。理由なんかなく好きだった。 一生、一緒にいてもいいと思えた、初めての人だった。 「総ちゃん、どうしよう。俺、アイツのことすげぇ好きなのに」 「だからろくでもない男なんて言われんだよ。お前は」 総一郎は一気に残りのチャーハンを掻き込むと、バイクのキーをぶらさげてにっこり笑った。 外は曇天。これから数分後、記録的な大雨が降り出す。 * 『初めまして、日比谷満です』 第一印象は、出来そうな女。 きっと俺なんか相手にもされないと思った。 実際そうで、差し出された名刺には有名な出版社の名前。 一方俺は、名刺を持ち歩く習慣さえついていなかった。 慌てふためく俺を見て、彼女はくすりと笑った。 『お名前は?』 第二印象は、優しい子。 どうして満は、俺と付き合ってくれたんだろう。 もしかしたら最初は同情だったのかも知れないとふと思った。 でも、それでも、それからの彼女の笑顔だけは疑ってはいけない。 見てるこっちまで笑えてくるあの笑みを、一瞬でも疑ったら、 きっと雷がヘルメットに落ちてくる。 * 歩くたびにスニーカーの中はゴボゴボ鳴った。 拭っても拭っても髪から滴がしたたり落ちて目に入る。 満の姿が見えた。 一流会社のロビー。 ガラス一枚隔てただけなのに遠い。 満は、笑っている。 側に俺がいなくても、笑っている。 満より先に警備員が俺に気づいたようだ。 眉間に皺を寄せて俺の方へと近づいてくる。 俺は逃げた方が良いのか、どうすべきなのか分からなくてグズグズと視線を彷徨わせる。 と、満の顔がこちらへと動いた。 満は大きい目をますます見開いて 『英司』 と俺の名を呼んだ。 「英司!?なにやってるの!!?」 自動ドアをくぐり抜けると同時に満はそう言った。 自動ドアの向こうで、駆けてきた満に途中で追い越されてしまった警備員が立ち往生している。 俺は突然申し訳ないことをしたような気がして、彼に向かって一礼した。 「何なのこの格好は。貴方、傘の差し方も知らないの」 彼女の左手がこめかみを叩く。 俺は頭を上げて彼女を見た。 「とにかく、私の車に来て。タオルがあるから、ふかないと」 今にも歩き出そうとする彼女の手首を掴む。 「こんな格好なのは、一秒でも早くお前に会わなきゃと思って、総ちゃんにバイクで送ってもらったからだよ」 「総兄さん?」 「うん、多分今コンビニでタオル買ってると思う」 「なんで、こんなに突然…」 「ごめん、満」 「え?」 「ごめんっっ!!!!」 俺は今度は満に向かって頭を下げた。 「ちょ、英司!?」 「俺は、どうしようもないほど大バカで、優柔不断で、お前よりずっと給料も低いし、 良い所なんて咄嗟には思いつかねぇけど、でも!!」 俺は頭を上げた。困惑した満の顔。 「お前のことが好きだ!!!!」 そしてやっと、自分の視界を歪ませているのは雨ではなく涙なのだと気づく。 「場所は会社の前とかだし、こんな格好だし、指輪もない、けど言わせてくれ」 息を大きく吸う。 「俺と、結婚してください!!」 すると、満の細い腕が首へと周り、嗅ぎ慣れた香水の香りが鼻孔をくすぐった。 そのまま唇を重ねられる。 俺は、嬉しがることも驚くことも出来なかった。 ただ、このままだと満まで濡れてしまうなぁとかどうでも良いことを考える。 呆然としているうちに唇が離れた。 得意げに笑った満の顔が真ん前にあった。 「あたしと結婚しようだなんて、やっぱりろくでもない男ね!」 彼女は笑いながら、しっかり数日前のお返しをしてくれた。 end.