031-初戀 カチャリと後ろのドアが開けられる音がしたので振り向く。 互いに驚いた目で見つめ合ってしまった。 「珍しいね、君がこんな時間まで残業をするだなんて」 いい加減な上司は、いつもは機敏に仕事を終わらせる優秀な部下を見つめる。 「はい。あるマイペースすぎる上司の皺寄せがこちらにまできてしまって」 リザはすぐに平静を取り戻し皮肉を込めて言った。 「そうか。それは災難だね」 ロイはハハハ、と軽く笑いながらも額に汗をかいていた。 「せめて今日分の書類は片づけて帰って貰わないと困るんですが、大佐」 「ああ、もうすぐ終わるところだよ」 その言葉は容易に信じがたくリザは眉を怪訝そうに寄せた。 「どうせこれからもっと忙しくなるだろう。有能な部下を過労で失ってしまうのは、惜しいからね」 コーヒーメーカーに二人分のお湯を注ぎながらロイは笑った。 リザは自分の鼓動が一瞬高まるのを感じた。 お世辞を知らないティーンエイジャーでもあるまいし、と少し自分に呆れる。 勿論今のは社交辞令に決まっているのだ。分かりきったことではないか。 「それにデートをする時間がなくなると困るからなぁ」 ほら・・・ね。 何を期待しているのかと自分自身を諫める。 いつのまにか背が丸まっていたので、真っ直ぐ顔を上げた。 コーヒーカップを二つ持ったロイが近づいてくるのを見る。 「すみません大佐。本当は私がやるべきなのに」 「なに、たまには労わせてくれたっていいだろう?」 「その前に仕事を終わらせて頂ければ充分なのですが」 「努力するよ」 苦笑しながらロイは大佐室へと戻っていった。 部屋に残ったコーヒーの香りは当分消えそうもない。 脳味噌を惑わす香ばしい匂いにリザは困惑した。 それから二時間が経過して、やっとリザはペンを置くことが出来た。 本当ならば一時間半で終わるだろうと見積もっていたのだが。 大幅なズレはいつもならばしない些細なミスが重なった所為だ。 乾いた眼球をいたわるようにマッサージを施しながら、リザは暗い夜道へと出た。 冷たい夜風が火照った体に気持ちいい。 と、少し先の電灯の下に誰かが立っているのに気づいた。 「大佐・・・」 「遅いよ」 「なぜ、」 リザは小走りに黒い影へと近づく。 「夜の道を女性一人で帰すわけにはいかないだろう。男なら」 「せめて、中で待っていてくだされば、」 「仕事の邪魔になってしまうと思ってね」 「格好つけないでください」 「それぐらいはいいだろう?男の心理だよ」 ロイは不敵に笑った。 「それに、ほら、優しい君なら二時間待たせたお詫びに食事くらい承諾してくれると思ってね」 ああ、また。 鼓動が揺れる。この人の言動一つで。 本当に自分はどうにかなってしまったんじゃないのだろうか。 初恋もまだの少女のようだ。 「返事は?リザ=ホークアイ中尉」 「・・・仰せのままに」 きっと今日は何かがおかしい日なのだ。 貴方は仕事を早く終わらせていて、私はくだらないミスをコーヒーの残り香一つで犯して、 なのに今はこんなに心が軽くて。 全ておかしい。 こんなに狂った日は一年の中で一日ぐらいでいい。心底そう思った。 しばらく歩くと、ロイは一人でくすくすと笑い出した。 「なんですか?」 リザは律儀に足を止めて横の男を振り返る。 「いや、」 ロイは口元に手を当てたが目は笑ったままだった。少しリザの耳に口を寄せて言う。 「だから、仕事早めに終わらせておいてよかっただろう?」 『デートをする時間がなくなると困るからなぁ』 先程のロイの言葉がすぐに思い出された。 本当に今日はなにかがおかしい。 一秒でも早く今日が終わるのを望む。 じゃないと自分は本格的に狂ってしまうから。 自分の頬が赤くなっていないか心配になって、リザは思わず顔を伏せた。 end.