027-物の怪  夏真っ盛りと全身で主張しているような怪談番組が談話室で流れた夜、  笠井はえらく御機嫌で、夜の散歩に三上を誘った。    ぱしゃり、と水音がした。  振り返ると、笠井がいつの間にか裸足になっていて、それが水面を蹴ったのだ。  たっぷり溜められた水に冷やされたのか、涼しい風が三上の頬を撫でる。  これが目当てだったのかと、納得しかけて思い直す。   笠井に従うまま歩けば、着いたのは学校のプールだった。  鍵がかかっていたが、フェンスを越えれば大した問題ではない。  形式的な物なのだろう。  確かにプールサイドは男ばかりで熱がこもる寮よりかなり過ごしやすかった。  コンクリートも今はひんやりと、肌に気持ちいい。  が、後輩の思惑はそれだけではないだろうと、これまでの経験が告げていた。  尚もばしゃばしゃと音を立てて水面を蹴る笠井の横に立つ。  波紋はプールの中央まで響き、そこに映る白い月を歪ませた。  まるで月が塩素漬けにされて本来の形を崩したように。  「お前、なに考えてる」  自然、そんな言葉が三上の口をついた。  「人魚」  一際大きく水面を蹴りながら、笠井はそう言った。  水飛沫が目の前の宙を舞う。  三上はその言葉を理解出来なかった。  「俺、人魚見てみたいんです」  「・・・・・・・・・・・・・・・・人魚?」  頭の中ではアンデルセンの描いたメルヘンチックなストーリーが展開されている。  金髪の人魚がこちらに向かって微笑むのを見ながら三上は、人魚って人魚だよな。 人形ではないんだよなと、ばらける思考を纏めようともがいてみた。  その混乱は顔に出ていたのだろうか。  笠井は、そうかぁ、先輩知らないんですね、と楽しそうに呟いた。  「何を?」  「武蔵野森学園一不思議」  「・・・一?」  「まぁ比較的新しい学校ですからね」  笠井は視線を三上に向け、にっこりと笑った。  「出るんですよ、ここ。人魚が」  月がいびつに歪んだ。    昔々のこと。  見せ物小屋で売り物にされていた人魚に、  この地に住んでいた男が一目惚れをして、救い出したらしい。   幸運にも男の家の前には池があった。  人魚はそこで男と楽しく暮らした。  しかし人魚は不老不死。男は限りある命。  男はやがて寿命で死に、人魚だけが残された。  男の四十九日が終わった日、池から顔を出して泣いている人魚の姿が目撃されたが、  それから人魚を見た者は居なかったらしい。  深い深い、太陽の光も届かない濁った水底に人魚は潜っていったのだ。  「その池を埋め立てて造られたのがこのプールってわけですよ。面白いでしょう?」  「アホらしい」  「そうですか?」  「お前この透き通った水のどこに人魚が見えるんだ?」    秋や冬ならば緑に濁り、枯葉が降り積もり、金魚が捨てられたりするが、  夏ともなれば水泳部の手によって磨き上げられ、底までよく見える。  人魚が隠れる余地など、どこにもない。  「先輩こそアホじゃないんですか?人魚なんですよ、人魚。   きっと水と一体化するとか、そういう能力を持ってるんですよ」  笠井は笑いながら反論した。  勿論笠井も心の底から人魚の存在を信じているわけではなく、面白がっているのだろう。  そう考えると説き伏せるのも見当違いな気がして、三上は黙り込んだ。  「どういう気持ちなんでしょうねぇ・・・」  「あ?」  「何百年も独りで愛する人の影を追うのは」    人魚は  愛する男の顔を忘れてしまったのだという。  だから近づいてきた男を手当たり次第に水中に引きずり込むのだ。  「男は死ぬ前に人魚を海に帰してあげるべきだったんですよ」  「人魚も最期まで一緒にいたかったんだろう」  「それでも。人魚を愛していたのならそうするべきでしょう」  「・・本当に好きなら、先のことも相手のことも考えられなくなるんじゃねぇの」  「うわ、自分勝手。それ、先輩の持論ですか?」  三上は横目で後輩を睨んだ。  笠井は気付く素振りも見せない。一枚上手だ。  三上は溜息をついて続けた。  「別にそれが正しいとは思わないが、気持ちが分からないでもない」  「独占欲強いですね」  「死ぬ瞬間に見るのが好きな奴の顔なら最高だろう」  三上は無防備な笠井の腕を捕った。  それまで絶え間なく続いていた水音が止まる。  「お前も死ぬまで縛り付けてやろうか」  それはただの自己満足。  でも人魚を助けたのだってつまりはエゴだろう?  裏を返せば、男は人生を賭けて人魚を愛し抜いた。  それに人魚が気付くかどうか。    三上が掴んだ腕を引き寄せようとした瞬間、左足が鋭い衝撃に襲われた。  笠井の蹴りがクリーンヒットしたのである。  思わず手の力が緩み、出来た隙間からするりと笠井の腕は逃れた。  痛さに耐えかねて、膝に手をつく三上を見下ろして笠井は笑う。  「冗談。俺は人魚じゃないんで、自分の足で逃げ出しますよ」  「あ、そ」  三上は上目遣いで、月光に照らされた不敵な笑みを見た。  「さってと、人魚も出ないし帰りますかぁ」  そう言うと笠井は靴をひっかけ、さっさとフェンスに近寄っていく。  一体何だったんだ、と思いつつ三上もそれに従った。    ぱしゃり、と水音がした。  条件反射で何の気はなしに三上は振り返る。  「先輩ー。早くしないと置いてきますよ」    促す笠井の声はもうフェンスの向こうだ。  「・・・ああ、今行く」  三上は水面に背を向けた。  結局、月が歪む波間から、  きらりと七色にきらめく鱗が見えた気がしたことを、三上が誰かに話すことはなかった。  end.