021-遣らずの雨   ざぁざぁと雨が降る。  少年はそれを見つめた。  乾いた空気は急速に鎮められ妙に肺になじむ。  夏特有の現象は幼い頃、故郷の島で何度も体験した。  ざぁざぁと雨は弱まることを知らずに降り続ける。   男が一人、少年が雨宿りしている場所に飛び込んできた。  ここを見つけるまでに随分時間がかかったのか体中から雨粒がしたたり落ちている。  その端正な横顔に少年は見覚えがある気がしたが、思い出せなかった。   ざぁざぁと降る雨で景色が霞む。  雨宿りをしている軒下は狭くて少し動けば肩先が男に触れそうだったので少年は体を強張らせていた。  男の体から落ちた滴が時々弾けて、少年の左の素足に飛んできた。  それが不思議と心地よい。   「雨、やまねぇな」   独り言ともとれる呟きが聞こえた。  驚いて男を見たが男の視線は降り続ける雨に捕らえられたかのように動かない。  少年は返答するタイミングを逃してしまったことに気づいた。  しかし、本当にさっきの言葉は男が発したものなのだろうか。自分の幻聴ではなかったのか。  そんなことを考えるほど男の視線は少年の存在に気づいていないかのように雨を見つめていた。   少年は、しかし先程の声に覚えがあった。  どこか、遠い記憶の果てにそれはある。  男を思い出そうとする。  どこかで自分と関わったはずなのだ。  この男は・・・、この男は・・・・・・・。   ざぁざぁと激しく降っていた雨は、通り雨だったのかその強さを弱めてきた。  空の一部はもう明るい。   早く、早く思い出さなければ。この雨が止む前に思い出さなければ。  男との別れが迫っている。  息が詰まるような焦燥にいきなり駆られる。   早く・・・、早く・・・・・・・。  その赤い髪が、揺れた。   早く・・・・・・・・・・・・・・。   男の骨張った手が自分の腕を掴んだ。  そのまま壁に押さえつけられ唇を塞がれる。  そうして初めて男の左腕がないことに気づいた。  呆然としている間に、男の熱い唇が離れた。  熱ばかりが唇に残った。  一瞬、男の肩越しに見た景色は、既に雨上がりの様子をしていた。  男の背中で空が遮られる。  男は踵を返し、外の世界へと出て行こうとしていた。  揺れる赤い髪。  けれど、男がどんな目の色をしていたのか、少年は見ることが出来なかった。  視線は一度も交わらなかったから。       ほとんど無意識に少年はその後を追って軒下を飛び出す。  少年は男を引き止めようとする。  ぽつぽつとまばらな雨が体を打つ。   少年はその名前を呼ぼうとする。  名前、あの男の名前を自分は知っている。   けれどもそれは喉で詰まって声にはならなかった。  男の背中が遠ざかっていく。   早く・・・呼ばなければ行ってしまう。  雨よ、どうか止まないで。もう少しだけあの男を引き止めて。    あの人を自分は、愛していた。   最後の一粒が、少年の頬に落ちてつ、と涙の様に肌を伝う。  雲は切れ、あの日のような夏の青空が少年の頭上に広がっていた。   男の背中は、もう見えなかった。  end.