009-天女の羽衣 「キスの仕方教えちゃる」 そう言ったのはほんの冗談だったし、 秀が本気にとったとしても、断るという自信があったからだ 隣の部屋では妹が寝ているだろうし、階下に両親だっていた けれど、白い蛍光灯の元で、週明けに迫ったテストの為に、 俺の講義を聞きながら英語の教科書を捲っていた秀は頷いた この男は時々予想もつかない行動をする そして俺自身も、俺自身の理性が想像だにしない行動をした 俺はベッドに寄りかかり足を投げ出していた秀の、その足に跨り、 膝立ちになった 秀の左頬に手を添えて、上を向かせる 教科書が俺の腹に当たった 恋心を意識したのはいつだったのか その頃の俺は秀への羨望と嫉妬で人体発火してしまいそうだった筈だ それがある日唐突に、自分は秀がいないと生きてはいけないと自覚した 秀は俺の半身を持っていて、 俺は秀の側にいることで俺という人格を保っていた まるで羽衣を盗られた天女様みたいだ 俺はこいつから離れるという選択肢を持たない 軽く、唇に触れた 秀のそれはオンナノコのとは違い、固くて、乾燥して、ざらついていた グラウンドの土の匂いがした気がした 多分俺の半身はずっと秀の後ろにへばりついてんだ そらもう背後霊のごとく そして抱きつきたい衝動と、 首を締め上げたい激情の間で葛藤して、葛藤して、 どうするんだと凄い目で半身である俺を睨んでくる 俺は答えを出せる程できた人間ではない だから、肩をすくめてこう言うんだ 「諦めろ」 挨拶みたいなキスをした繰り返した後、俺は秀の口内に舌を入れた 何故だか泣きそうだった。馬鹿らしい。くだらない 何だって俺はこんなことしてるんだろう 何でこんなことしか出来ないんだろう 秀が側にいない俺は、傍目からはどんなに普通でも本当は死んでいる だって半身がないんだ それでも俺はそっちの道を選ぶ 俺は秀に抱きつくことも、秀を殺すことも出来ないから 全く、厄介な男に羽衣を持ってかれちまったもんだ その男が無意識だからタチ悪りィ でも、いい。もう、いい 顔を離すと、唾液が俺らの間で糸を引いた 秀の目は真っ直ぐ俺を見ていた 最初に言う台詞が聞きたくなくて、 俺は秀の視線と唾液の糸を断ち切る様に顔を背け、 そのまま秀の背後のベッドに潜り込んだ 壁を見つめていると、その内秀が電気を消し、 床に敷かれた布団に入る気配がした 俺はその時、アホみたいに涙を流していた 声は出さなかったので、奴は気づいていなかったと思う 最後に愛の溢れるキスってやつをしてやってもよかった 冗談めかして笑ってもよかった でも俺はそれが出来るほどの勇気を持たない、脆弱な生き物だった もう、いい。もう、終わらせよう このまま秀の側にいたら俺は、天に帰れないどころか気が狂っちまいそうだ 小さい頃、羽衣を盗ったのが漁師だと分かっても、 その男を愛し続ける天女の気持ちが解らなかった でも今は、そういうこともあるのだと思う 理性も常識も、全てを乗り越えて俺を支配する、感情があると知ってしまったから end.