あの日、いっそ死んでしまいたいと思ったこと


 嘘ではないからね。











 008-一人静











 「フロド様、見てください。野花が咲いてましたよ。春が近いんですねえ」


 朝一番、庭師は部屋に入って来るなりそう言った。

 殊、この島では時間という概念が薄れるので、フロドは現実に引き戻された気さえした。
 サムの手に握られた花は、成る程、シャイアでも春によく見かけた花だった。

 茎頂で白い花弁が揺れている。

 「可愛い花だね。テーブルに生けてくれるかい?」
 「勿論ですとも。他の花もそろそろ咲き始めるから島は賑やかになりますね」

 フロドはそっと笑った。
 エルフが支配するこの島では草木は生気に満ちあふれている。

 中つ国では滅多に見られない楽園と見まごう光景。

 「フロド様?」
 「…ああ、サム。うん、僕はこの花の名を忘れてしまったようだ」

 一瞬思考が他に飛んでいたのを気取られたくなくて取り繕う。
 しかし、それは真実だった。
 厳密に言えば、フロドはそ花の名前を全く知らなかったのだが。
 大した誤差ではない。 

 「この花ですか?一人静、と申すんですよ」
 「ヒトリ、シズカ…?」
 「へぇ」
 「そう。なんだか、寂しげな名だ」
 「そういえばそうですねぇ。花の様子もどこか危ういですし」

 サムは何気なくそう言って、己の手に握られた白い花を見つめた。

 「ねぇ、サム」
 「はい?」
 「それは、どこに咲いていたの?」










 ここに来て何年になるのか、判らない。
 レゴラスとギムリがこの島にやってきたあの日から幾つの春を超えたのだろう。


 良く晴れたあの日、僕は彼の死を知った。


 悲しかった。苦しかった。それ以上に喪失感が勝っていて、現実さえも見失った。
 眠れば夢に出てくるのは、滅びの山の紅く燃える火口と目。

 これ以上何を差し出せと言うのだろう。

 命さえも差し出せなくなってしまった僕に。







 あの日、いっそ死んで貴方の側に行きたいと思ったこと、嘘ではないからね。





 今でも叶うならば、そうなりたいと思っているのだから。
















 一歩森に踏み込めば、そこはもうフロドの世界ではない。
 いつもそう思う。

 光と水、風に祝福を与えられた森は、
  物言わぬ動物と自分を心から愛してくれるエルフしか受け入れないのだ。 

 道から見れば喧噪に満ちた森でも、近くに寄れば素早くその生気を隠す。
 だから、自分が歩く森はいつも暗く静かなのだとフロドは思う。



 出掛けにサムが「そんなにあの花がお気に召しましたか」と問うてきた。
 フロドが曖昧に笑うと、それ以上追及はしてこなかったが。



 気に入った、という表現は適切ではない。

 簡単に言ってしまえば親近感が湧いたのである。



 一人静、という悲しげな名を与えられたあの花に。おかしなことだが。






 「フロド?」







 突然、斜め後ろからそう呼びかけられた。
 声で誰だかすぐに解ったので振り返る。

 森に愛された種族に属する彼の冠には木漏れ日が降り注ぎ、
  金糸の髪を爽やかな南風が揺らしていた。


 「驚いた。いつもの散歩とは道が違うね。あまり森深くへ入ったら危険だよ」
 「森が閉じこめてしまうのですか?」
 「いいや。具合が悪くなって帰れなくなった時にサムが見つけにくいだろう?」

 成る程、とフロドは苦笑する。

 「なんだか目的があって歩いている風だったね。どうしたの?」

 一瞬迷ってから、フロドは決心して本当のことを言った。

 「一人静を、見に行こうと思って」
 「一人静?ああ、そっちの方向にも咲いているけど、こっちの方が綺麗だよ。ついておいで」
 「え、」

 しかしレゴラスはもうスタスタと歩き始めていた。
 フロドは、矢張り一瞬迷って、大人しく彼の背中を追うことにした。







 「一人静の逸話を知っている?」
 「逸話?」

 レゴラスと一緒に歩いていると森は全く違った顔を見せた。 
 木漏れ日は斑に道を照らし、湧き水がせせらぎをつくり、風は木の葉を揺らして音を奏でる。

 「そう。どうして一人静っていう名前が付けられたのか」

 フロドは足を止めそうになるのをこらえた。

 「花の様子からではないんですか?」
 「花の様子?ああ、確かに、春に咲くのに地味な花だよね」

 そう言ってレゴラスはクスクス笑う。
 風が、待っていたとばかりにその笑みを掬い取り、辺りにばらまいた。
 笑い声は暫く森に残響を残す。

 「一人静っていうのはね、昔々に人間の王子の恋人だった舞姫にちなんだ名だって聞くよ」
 「舞姫、」
 「うん。花の立振舞がね、その舞姫が踊るところにそっくりだって言うから笑っちゃうよね」
 「寂しげな、お方だったんでしょうか」
 「さぁ。でも、幸せな人じゃなかった」
 「どうしてです?」
 「舞姫の恋人だった王子様は兄王子と跡継ぎ争いをした果てに、殺されてしまったからさ」

 では、彼女も思っただろうか。
 フロドの脳裏をそんなことがちらりと掠めた。


 死んででも会いたいと。












 「ほら着いた」

 そう言ってレゴラスに指し示された場所は、
  木がどういうわけか生えるのを避けて出来たような、ぽっかりと空いた野原だった。

 一面が白く染まっている。
 よくよく見れば、その一つ一つが一人静なのだ。

 「ね、綺麗だろう」

 フロドは息を詰めた。
 その光景の美しさに息を詰めたのではない。
 自分の愚かさで呼吸困難に陥ったのだった。

 寂しげな花の様子に同情して、一人静という名に親しみを覚えて、
  友人を慰める様な気持ちで来たのだった。

 しかし、ああ。

 ここは生気に満ちあふれた森。
 そして一人静は生涯一人の人を愛し続けた強い女性の名をもらった花だった。


 木漏れ日を受け、清らかな水をたっぷりと吸い込んだ花は、
  一つが風に揺られれば他のも一緒に揺られた。
 一人ではなかった。寂しげでもなかった。

 決して華々しい光景でもなかったが、穏やかな優しさの様なものが、そこにはあった。

 「…何だか裏切られた様な気分だ」

 フロドが笑いを噛み殺しながらそう言うと、隣のエルフは物問いたげな顔をした。
 なんだかどうでもよくなってしまったので、ここまで来た経緯をフロドはレゴラスに説明した。

 「成る程」

 聞き終わるとレゴラスはにやりと笑った。

 「結局僕の空想だったんです。被害妄想と言ってもいいかもしれない」
 「うん。全く」


 レゴラスの素っ気ない物言いにフロドは少し驚く。
 彼のそんな口調は珍しかった。


 「だってさ、一人静ってまるで君じゃないか」

 どういう意味かとフロドは口を開きかけたが、
  声が出るよりも先にレゴラスが無言で一人静を指した。

 「君には見えないかなぁ。あの一人静みたいに、君の周りにもたくさん仲間がいるってことを」
 「…レゴラス?」
 「君の側にはいつだってサムがいるじゃないか。ガンダルフやギムリ、それに僕だって。
  …アラゴルンの魂だって、きっと君を守ってくれてるよ」










 一人で静かにここで世界の終わりを待つのだと思っていた。
 それが自分に課せられた罪だとも。


 あの世で会えるという希望も断たれたこの島で、
  永遠に死刑執行日が来ない死刑判決者の様に。








 しかしこれは、この命は、彼が自分の命を懸けて、僕に遺していったものではないか。

 ああ、そうだ。



 そうだった。


















 一人静。





 戦の終盤。
 舞姫の身を案じた王子は、彼女と別離を交わし戦場に赴いた。

 舞姫は、兄王子に捕らえられ、王子の居場所を吐くよう要求された。
 しかし、彼女は頑として聞き入れなかったという。

 兄王子は次に、自分の前で舞を踊れと彼女に命じた。



 彼女は、王子との幸せな日々に戻りたいと歌いながら舞った。
 彼が褒めてくれた舞を、彼を思いながら踊り続けた。



 そして、王子は殺され、舞姫は自由の身となった。







 舞姫は思っただろう。死ねば愛しい人に会える、と。


 しかし彼女はそうしなかった。


 ただ、再び彼が会いに来てくれるのを待っていた。
 夢の中でも、生まれ変わってでもいい。
 自分に会いに来て欲しい。


















 一人、静かに君を待つ。







 そんな願いを心に宿していたのかもしれない。








 end.







 

捕捉
作中での人間界の王子様:源義経
舞姫:静御前

以下引用
「和名のヒトリシズカは源義経の愛妾の静御前の舞い姿にたとえて名付けられました。

 白拍子の名手だった静御前は源義経に寵愛されましたが、
 義経の兄頼朝の追っ手から逃げるために大和の吉野山で義経と別れて
 京都へ帰る途中で捕まり、鎌倉へ送られてしまいました。
 静御前は義経の居場所を厳しく尋問されましたが、答えませんでした。
 その後、静御前は頼朝に命じられて鶴岡八幡宮の回廊で舞いを舞うことになりました。

 吉野山 嶺の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
 賤(しづ)やしづ 賤のおだまき繰り返し 昔を今に なす由もがな

 静御前は頼朝や政子の前で、
 「私は卑しい身でおだまきを繰っています。
  義経と一緒にいられた昔の日々に戻ることはできないのでしょうか。」
 と、義経恋慕の歌を歌いながら舞いました。
 頼朝は怒りましたが、政子が
 「あなたが流人の身で伊豆にいた時、私も今の静のように一人寂しくお慕いしておりました。」
 と、とりなしました。

 静御前は後に義経の子を産みましたが、
 子供は男の子だったので由比ヶ浜に捨てられ、殺されてしまいました。
 その後、静御前は許されて鎌倉から京都へ帰ることが出来ましたが、
 以降の消息ははっきりしておらず、各地に伝説が残っています。」

本当は政子様の話も入れたかったです。