酒には酔わぬ体質だが、噎せ返るような花の香にやられたのか  一瞬視界がぶれた。  006-春花秋月  白い花弁が気紛れのように、男の杯に落ちる。  黄色い月が映った水面に波紋が広がった。  男は薄く笑うと、花びらごとそれを飲み干す。  驚いたのか呆れたのか、もう一人の男が物問いたげな顔で見つめた。  「春は花」  赤髪の男は歌うように呟く。  「秋は月、冬は雪」  それを肴に酒は飲むものだと言いたいらしい。  説かれた男は無言で透明度の高い酒を口に運ぶ。  この木の下で酒を飲み始めてどれくらい経ったのだろうか。  目の前の男は酔いが回ってきたらしい。  自分はと言えば、酒の方は全くだが、しきりに花びらを降らせる花の香に少し酔わされた。  「夏は、」  赤髪の男に訊ねた。  春は花、秋は月、冬は雪、  「夏は酒は飲まねぇ」  今度こそ本当に呆れる。  一年中酒の匂いを振りまいておいて、どういう了見だろうか。  「楽しむ為に酒は飲まねぇ。忘れる為に飲む」  短い夏の夜はそれくらいで充分なのだと。  忘れたいものは何かと問うまでもなかった。  鮮やかな夏の思い出は、短い夜を楽しむには重すぎる。  はらりと、自分の杯にも花びらが降ってきた。  先程の男のように喉に流し込む。  それを見て赤髪は声を立てて笑った。  春夜のどこか淀んだ空気に男の笑う声が広がる。  流し込んだ花びらは、喉の途中に貼りついたようで、言いしれぬ不快感だけが残った。  それは本当に花びらなのか。  はたまた忘れられぬ思い出というやつなのか。  どちらでもいいから消し去りたくて、また酒を煽る。  成る程、酒もたまには役立つ物だ。  end.