002-薄氷








  張りつめた屯所の朝の空気にざくざくと、
 昔子どもを経験したものなら一度は聞いたことがある音が響く。

 ざくざく、ざくざく

 屯所の子犬、こと市村鉄之介がまだあどけなさの残る顔で
 それはそれは嬉しそうに足下の氷を踏みつぶしているのだ。
 子どもの頃にはありがちな破壊行動である。

 ざくざく、ざくざく



 「ああ、とうとう氷が張りましたねぇ」

 ゆったりとした声に鉄之助は顔を上げた。
 庭に面した部屋の障子から寝起きの沖田総司の顔がのぞいていた。

 「あッ!沖田さんッ!!風邪もう大丈夫なんですか!?」

 二つ名よろしく市村が駆け寄る。

 「ええ、ご心配をおかけしました。昨日一日寝たらすっかりですよ」

 沖田はにこにことその様子を見つめた。

 「今年はいつもより氷が張るの早いですね。雪が降るのも早いんだろうなぁ」
 「え?沖田さん、雪嫌いですか?」
 「…いいえ、嫌いではありませんけど」

 真っ直ぐ貫いてくる鉄之助の視線を受けて、沖田は少し言い淀む。
 時々、この視線が苦手だ。
 鉄之助の目は真っ直ぐすぎて、
 自分の汚いところまで見透かされているのではと不安になる。
 この目が他を向いていればいいのに。
 それなら自分も微笑んだままでいられる。

 「鉄君は、雪、好きですよね?」

 半疑問の問いに鉄之助は当然と自信満々に頷く。
 今年の冬、雪が降り積もった屯所の庭を鉄之助が遊び回って、
 自身の二つ名を更に有名にすることは間違いなさそうだった。

 「ええ、鉄君はそれでいいんです」

 沖田の笑いを含んだ言葉を鉄之助は理解できないようだったが、
  沖田はにこりと微笑んだ。

 ガラリ、という音と共に沖田の背後で障子が開いた。
 障子からのそりと首を出し現れたのは鬼の副局長、土方であった。

 「あ、土方さん、おはようございます」
 「ございまーすっ」

 土方は銜えていた煙管を手に持ち替えて口を開いた。
 動作が緩慢なのは寝起きの所為だろう。

 「…テメェら、朝っぱらからなにやってんだ。特に総司、お前は病み上がりだろう」
 「すみません。楽しそうな音が庭から聞こえたものですから」

 沖田はちっとも悪びれずにさらりとそう言った。
 土方の瞳が動く。
  鉄之助が踏み荒らした氷を見やって全てを察したのか、溜息をついた。

 「市村、年はいくつだ」
 「15です」

 きっぱりと鉄之助は答える。
 土方の言葉の裏に隠された意味は発見されることなく消滅した。

 土方は諦めたのか煙管を銜え直し、一言告げる。

 「茶ァ」
 「はい!」

 鉄之助は満面の笑みを浮かべて走り去った。


 その後ろ姿を、沖田はクスクスと笑いながら、土方は不安そうに見つめる。

 「鉄君は、強くなりましたねぇ」
 「…そうか?」
 「ええ、きっともう少し踏まれたくらいじゃ割れませんね」

 沖田が鉄之助を氷になぞらえていることは直ぐに分かった。

 「…まだまだだろ、冬は。雪も降る」
 「でも、鉄君は雪、好きみたいですよ」
 「ああ、」

 犬コロだからな、と土方は言いかけたが止めた。あまりにも的を射すぎていたからだ。
 それでは自分は、犬コロを小姓にしたことになる、と。

 「沖田さんは好きじゃないんですか、と聞かれて、答えられませんでした」
 「……」
 「雪は白いから、自分の汚さが目立ってしまうようで嫌いだとは言えませんでした」

 沖田は置きっぱなしになっていた下駄を履いて庭へと出る。
 ひやりと足の裏に冷気が走った。

 「不思議な子ですね、鉄君は」

 あの子の前では、いつも優しくて笑顔でいる沖田総司でありたいと願ってしまう。
 鉄之助の記憶に自分の汚いところは残したくなくて、嘘ばかりつく。
 それが、自分の黒い部分を益々拡張していくだけだと知っていたとしても。

 「…お前は、」

 土方の声に沖田は顔を上げる。

 「大丈夫なのか」
 「え、何がですか?」
 「踏まれても、大丈夫なのか」

 沖田はああ、と呟いて鉄之助に粉々にされた氷を見る。
 そして、土方の方を向いて、笑った。

 「私には、まだまだ冬の寒さが必要みたいです」

 沖田の意地の悪い笑顔を見て、冬の寒さとは自分のことなのだと土方は知る。
 眉間へと自然に皺が寄って、煙を大きく吐き出した。

 沖田はクスクス笑っていた。

 「…冬の寒さもいいが、まずは風邪を治せ」
 「はい。ご心配おかけします」

 その返答を聞くと土方は踵を返し、障子の奥へと消えた。



 沖田はそれを見届けてから氷の破片を拾い上げる。
 ひんやりとした温度は今の自分の体には心地よいほどだった。
 けほ、と軽い咳が唇から漏れる。

 ふと、掌を広げてみると小さな氷は全て溶け、雫が少し残っているだけだった。

 それもすぐに蒸発して空気に散ってしまうのだろう。

 沖田はその雫をそっと自分の頬に寄せた。







 そんなに優しくしないで欲しいと思う。

 薄い氷は直ぐに溶けてしまって、その痕跡すら貴方の記憶に残りはしないのだから。








  終